彼が歩んできた道のりに思いを馳せるとき、私の中に52ヘルツで鳴く孤独なクジラの姿が浮かぶことがある。一般的に20ヘルツ前後の鳴き声で呼び合うと言われているクジラ。しかし、そのクジラは仲間と群れることなく、52ヘルツで鳴きながら孤独に海を泳いでいたという。
氷上で至高の表現を追い求め孤独な戦いに挑んでいた彼にも、彼だけの歌声を響かせながら独り暗い海を泳ぐような時間があったのではとイメージを重ねてしまうのだ。ここからは、広い海を孤独に泳ぐ姿に思いを馳せた私の妄想語り。

20ヘルツで呼び合わなければ群れることはできない。けれど彼は、52ヘルツの歌声こそが何よりも自分を輝かせることを知っていた。52ヘルツの歌声だからこそ伝えられる想いがあるのだと。そうして彼は、仲間と群れるために20ヘルツで鳴くことよりも、52ヘルツの歌声を響かせることを選び、心を込めて歌い続けた。
彼に憧れ真似をしようとする者も現れた。しかし、どれほど練習してみても彼のように美しく鳴くことはできない。次第に仲間たちは彼の美しい歌声を羨み、妬むようになった。冷たくあしらい、心無い言葉を投げかけることさえあった。それでも彼は、いつかきっと届くと信じてただひたすら美しい歌声を響かせ続けた。深い海の中を孤独に漂い、水面から差し込む光を見上げては、さらなる理想を追い求めて休むことなく歌う日々だった。
本当は寂しかった。仲間たちに自分の歌声を聴いてほしかった。受け入れ、ともに歌ってほしかった。けれど、クジラたちは20ヘルツでしか鳴けない。この歌い方なら…この歌声なら…。切なる願いを込めて全身全霊をかけて歌っても、クジラたちには届かない。暗い海の底、20ヘルツの鳴き声はクルクルと小さな輪を作り、彼の美しい歌声を不協和音でかき消しては楽しそうに戯れ続けるのだった。
彼は悲しかった。絶望に打ちひしがれ、独り涙した日々も数え切れないほどに。けれどいつしか、遠い水面から差す光が彼の美しい歌声を祝福していることに気が付いた。その光は、彼の歌声に癒やされ、希望の火を心に灯し、喜びに心震わせる者たちがいることを教えてくれた。その美しい旋律は、暗い海を越えて広い世界に優しく響き渡っていたのだ。
待ってくれている。求めてくれている。それは、なんて幸せな感覚だろう。自分の魂を込めた歌声が誰かを笑顔にし、温かく包むことができるという幸せ。そのためならばどんな努力も惜しまない。どんな苦難も乗り越えられる。孤独でつらく苦しかった日々に、温かく優しい時が流れ始めた。
もっと幸せにしたい。もっと笑顔にしたい。さらなる希望を胸に暗い海の底から輝く光の世界に飛び出した彼は、心の赴くままに夢中で歌い、溢れる感情のままに舞うことで何にでもなれることに気が付いた。ときに、輝く真紅の美しい翼を羽ばたかせ、ときに、純白の龍神のように空を駆けながら美しい歌声を響かせた。
悲しみを抱えた人には少しでも希望と笑顔を。幸せな人にはさらなる幸せを。誰かのために…ただそれだけを想い、身を削り、心を砕いて空を舞い歌い続ける。そんな彼の姿に人々は心を打たれ、涙し、明日への希望を見出していった。
望んだわけではない。求めたわけではない。高く掲げた志を貫くことで、彼は図らずも人々を照らし、導く光となった。人々の心に明かりが灯っていくのを見るのが大好きな心優しい彼は、自分の歌声で笑顔になっていく人を見ているだけで心の中がじんわりと温かくなるのを感じた。幸せ?…うん、幸せ。それは、誰かのために歌い続けた彼だけが手にすることができた唯一無二の幸せだ。
けれど、彼は気付いていた。心の奥底に、仲間とささやき合い、じゃれ合いながら過ごす小さな幸せに焦がれていたあの頃の自分が、ひっそりと独り膝を抱えてうずくまっていることに。稀有な才能と、血の滲むような努力の末に手に入れた幸せは、膝を抱えた少年のささやかな夢を叶えてはくれないのだと。
いまでも彼は待っているのかもしれない。52ヘルツの美しい歌声をともに響かせ、肩を並べてくだらない毎日を刻んでいける仲間が現れる日がくるのを。
…これは、私の脳内で繰り広げられた、美しく心優しいクジラが生きる世界の話。

彼がどこか達観したように「幸せです」と口にするたび、私の脳裏に浮かぶ心優しいクジラ。明るく広い世界に飛び出してからも、暗い海の底から水面に差す光を見上げるような鈍い胸の痛みが消えることはないのかもしれないと、勝手な想像をしてしまう。
そして、その思考にたどり着くたびに、グルグルと頭の中を巡る想いがある。GIFTの最後、「ありがとうございました」の声を聞いて会場に響きわたった大歓声に、彼は何を思ったのだろう…と。進んできた道を、選んできた道を、祝福することができただろうか。頑張った自分を褒めてあげられただろうか。あの瞬間の彼の表情に何を想えばいいのか。いまでもずっと胸がざわめいている。
彼の歩みはこれからも続いていく。そして、彼が削った幸せを拾って返したいと願う私の日々もまた、彼の歩みとともに続いていく。彼のこれまでとこれからに思いを馳せ、くだらない妄想を繰り広げながら、変わらぬ彼への愛を叫び続ける。彼の歩みを照らすちっぽけな光の粒の1つであり続けること。それが私の幸せであり、心の支えなのだと改めて感じている。
幸せ?…うん、幸せ。
かけがえのない人生のひと時を優しく美しく彩ってくれる彼が、誰よりも幸せでありますように。
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